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中2の歴史授業 |
中学2年生の歴史の時間でしたが、オスマン帝国の解体過程で、アラブ社会の中にどのようにしてイスラエルという国家が生まれてきたのか、という「中東」問題の核心部分がテーマでした。
日本だと「政治的中立」性を過度に意識し(させられ)、淡々と味気ない授業になりがちですが、改めてここはアラブの国であることを実感。正に「口角泡を飛ばし」という感じで教師が熱弁を振るっていました。
エジプトはアラブ全体を率いてイスラエル建国阻止の戦争に踏み切りましたが、第3次「中東」戦争までの軍事的敗北と戦費の圧迫により、第4次「中東」戦争(1973)で一定の戦果が出た段階で、イスラエルとの平和条約を真っ先に締結した国でもあります。その裏には、アメリカ合衆国から経済支援とイスラエル承認の交換条件を出されたのが大きいのですが、アラブ社会の中でもエジプト国内でも裏切り行為と批判する声があがり、おかげで条約を締結(1979)したサダト大統領は1981年に暗殺されます。(暗殺者が「同胞団」系将校だったため、今日のイスラム同胞団と軍部の確執は、その時から続いている)
当時の後継のムバラク大統領(「アラブの春」によって失脚)は、当面の平和の実現と国民の安定、国力の増強路線を継承し、イスラエルとの「和平」は一応保たれたまま、今に至っています。
しかし、エジプト人、そしてアラブ人、恐らく内心複雑な思いを抱いているのではないかと思われ、実際に教師はどのように歴史を読み解くのか、生徒に何を伝えようとするのか、どのような授業展開になるのか、とても興味深く授業に参加させていただきました。
身振り手振り交えて熱く語ってはいましたが、意外に話す内容は、年表や地図を用いてひとつひとつ事実を確認し、年号や事象を生徒に確認しながら、現在のイスラエルと周辺アラブ諸国の地理的歴史的対峙関係を把握する、という展開でした。
率直に言って、少しホッとしたような、しかし、がっかりしたような気分でした。
というのは、ひとつは、もっと過激にイスラエル批判や英仏米批判が出るのではないかと想像していたからです。(ひょっとすると、ことばの端端に出ていたかもしれませんが、所々単語がわかる程度だったので、定かではありません)
そして、ここが肝心だと思うのですが、何が問題だったのか、何を教訓とすべきか、今後どう解決していくべきなのか、について生徒の疑問や考えを出し合いながら議論する、という展開がなかったことです。1時間すべて参観していましたが、次回に連なるヒントや宿題(次回まで考えさせるような課題)もありませんでした。(ひょっとすると、日本のような規制や自己コントロールが働いているのかもしれません。そのうち聞いてみるつもりでいます。)
学問とは、単なる知識の集積ではありません。もちろん、イデオロギーの誘導でも追究でもありません。過去を知ることによって、知識を継承することによって、未来に託された課題をどう現代的に解決していくのかという、一人一人に突きつけられた問いに自分はどう答えるのか、という人生と思想をかけた闘いであり、学びの道だと思うからです。
こうして、エジプトでの授業を参観しながら、結局日本だって同じじゃないか、と、これまでの日本の教育の欠陥にも思いを馳せながら、21世紀の学校教育の在り方を、地球規模で、本当に人類の幸福と発展にふさわしい学びの場に改革していく必要性を、改めて強く感じています。
(補足)
エジプトでは、ハッキリ地図にイスラエルの現況が示されていましたが、同じアラブでもかなり温度差があります。かつて、占領パレスティナを訪れた際、地区司令部に貼ってあった地図にはイスラエルは記載されていませんでした。敵対関係にあるのは当然としても、戦略上把握しておく必要はあると思ったので、地区司令官に、イスラエルのことは書かないのかと聞いたところ、ちょっとムッとして、断固とした口調で答えてくれました。「存在しないものは、存在しない!!」
・・・どうかなあと思いましたが、直接占領され、自分の故郷を追い出された人たちです。 つまらない聞き方をしてしまったかと少し反省しましたが、彼らの思いは、とてもよく伝わってきました。